哲学的瞬間

修学旅行

 高校の修学旅行で沖縄へ行った。楽しみだったし、非日常を大いに期待した。

しかし沖縄はたいしたことはなかった。

楽しかったし、いい思い出にもなったが、どうも納得がいかなかった。

こういうものは大体準備しているときが一番楽しいということもあるだろう。それは解るけども、なんとも平凡だった。

首里城も地元とは違う色の海も、所詮は自分の視界の出来事のように感じて、あまり意味を成さなかった。

街路樹

 学生時代住んでいた町には、一本の川があり、それに沿って遊歩道が整備されていた。

私はその遊歩道緒が大好きで散歩に出かけたり、買い物ついでによってみたりとほぼ毎日のようにその遊歩道を使った。その遊歩道には等間隔で桜の木が植えてあったが、冬のある日の買い物帰りにそのうちの一本に目が留まった。

 どうしてこの木はここに植わっているんだろう。区だか都だかの事業でどこかの業者が植えた、もちろんそんなことが聞きたいのではない。

どれも不適切な表現ではあるが、その時私が思ったのは、どうして木だとわかるのか、何からできているのか、どうして触れれば感触があるのか、どうして私と木には違いが生まれたのか、木は私をどう思っているのか。

 私と木は同じではない。今の同じは同一人物という意味あいだ。木を五感で感じることが木との壁のように思えた。しかし、その木は今にも溶け出して私とすべてを塗り替えるそぶりを見せていた。

 静けさや 岩にしみいる 蝉の声   

蝉の声が岩にしみいるとは、こういうことではないのだろうか。すべての境界線がぼやけて意識することがなくなることに芭蕉は静けさを感じたのかもしれないと思う。

教習所にて

 教習所のオッサンが「運転が客観的ではない」

周りへの気配りが足りないとかそういう意味合いで言ったのだと思う。

国語の授業などでよく聞く言葉だし、私もそれなりに言ってきた。しかし、客観と主観の違いは何なのか。

偏差値がいくつとか、身長が何センチだとか、そういうデータ的なものを客観だと思っていたし、今もそうとしか思えない。

そのデータを見た瞬間に始まる私の脳みそでの思考は主観的ではないのか。

 先ほどの木を持ち出せば、木があるのは客観的なことなのか。理想上の木があったとして、それを五感で感じて始まる私のすべては主観的なのか。だとしたら、そこに木があると誰が証明できるのだろう。

隣の恋人に聞けば木があると言ってくれるだろうが、そう言ってくれた彼女の存在さえ疑わざるを得ない。

しかし、主観的には、木も彼女もいると信じるしかないし、いてほしいと思っている。主観的には在るとわかっている。

哲学的瞬間

 私は哲学科でないし、哲学を学んだこともない。

そうである限り、私の言っていることはたわごとだろう。事実哲学がどんなものなのかも知らない。

しかし、若気の至りせよ、私がたわごとを考えるのは好きだったのは本当だし、哲学がどんなものなのか理解したかった気持ちも間違いはない。

本当にそんなことがあったのかどうかさえ疑わしくなった今でも、ふとした瞬間に、視界が一枚の絵のように額縁に入れられた遠近感が演出されているだけのものに思えるときがある。

決まってそういう時は、疑問にすることさえできない違和感を追い求めたい気持ちになる。

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コメント

  1. @Mr.退屈 
    ありがとうございます。
    これからもご意見ください。

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